

六甲比命神社の磐座はおそらく巨石文明の栄えたであろう縄文時代のころ、巨石を積み上げて組み上げられたものを含む、神の依り代としての機能を持つものと考えられます。
インドから渡ってきた法道仙人はここを奥の院とする多聞寺を古寺山に創建しました。法道仙人が雲ヶ岩で修業中、毘沙門天が紫の雲に乗って現れたと伝わります。
心経岩の般若心経も、この時に、法道仙人によって刻まれた、と言われます。現在の般若心経は、大正5年に彫り直したものです。
山号は六甲山、そして祭神の弁財天=吉祥天と毘沙門天(多聞天とも呼ばれる)が仏教本尊の中では珍しくご夫婦であることから、吉祥院多聞寺と命名されたものと思われます。
その後、役行者の縁者、四鬼家が奈良の天川村の洞川(どろかわ)より神戸市北区の唐櫃(からと)に移住して、近代にいたるまで、ずっと西六甲の山を管理していました。
六甲山が、かつて西宮市の廣田神社の領地であった、ということから推定しますと、法道仙人渡来以前はここはかつて廣田神社の奥宮だった可能性があります。
2012年、六甲比命講は、六甲比命が向か津姫=瀬織津姫と同一の神であることを認定し、六甲比命大善神の磐座の存在が六甲山の山名の由来であると推定していますが、これらは『ホツマツタエ』の記述から導き出されたものです。